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自分で自分の作品について語るのはダサいの?

タイトル通りの問題意識なんですけども。

フィギュアを作ってる作家って、自分の作品についてあんまり自分からは語らないイメージがあって。

特にオリジナルな作品を作ってる人は、制作にあたって色々な思いがあったと思うんですけどね。

産婦人科が思うに、

『「こういうこと思って作ったんだ」っていうのが自分の中であったとしても、それは声高に主張せずに受け手に委ねるのが上品だしそれが美徳だ』

とか

『制作意図を押し付けるのは受け手の解釈の幅を狭めることにもなるのでよくないと考えている』

とかとか、そんな風に思ってるんじゃないかなと。

ていうかぶっちゃけ言うと、「良いように拡大解釈してくれたらラッキー」とか邪なこと考えてるだけじゃねぇのか?

あるいは、単に「あなたの主張なんて興味ない」って言われるのが怖くて言えないだけとか。

そんな感じの人ってけっこう多いと思うんですよね。

まぁ全部僕のことなんですけど。

ていうか、ちょっと前まではそうだったんですよね。

「自分から作品について主張するのは押し付けがましいと思われて嫌われそうだな」

とか

「誰かから聞かれてようやく答えるくらいがクールだな」

とか思ってたので、自分からはあまり発信しなかったんですよね。

そしたら誰も何も聞いてくれねぇでやんの。

なので仕方ないから自分から言うことにしました。

ていうのは半分冗談ですけど(もう半分は切実に本気ですが)。

|「作り手の意図」って超オモロいじゃん

実際問題、ある作品がどういう経緯や意図で作られてるかっていうのがわかることで、その作品がより良く感じられてエキサイティングだし、商品の付加価値として「ストーリー」が重要だというのは僕が言うまでもなく自明じゃないですか。(そうでもないのか?)

実際、僕自身そういう経験が多々あるんですよね。

例えば僕は映画評論が好きなんですが、一度見た映画でも批評を頭に入れてからもう一度鑑賞すると以前とは全く違った感想をもったりします。

音楽でも、作曲者のインタビューを読んでから聞き直すと、前に聴いたときには聞こえなかった音が聞こえるようになったりとか。

なにより、新しい作品に接したときに、以前とは自分の見方や感じ方が変わっているということを実感したとき、ちょっと興奮するんですよね。

そういうのが僕は好きで。

|作家が制作意図を表明すると、受け手の解釈の幅は狭まるの?

あと「作り手が作品の『正しい解釈』を提供してしまうと、受け手の解釈の自由が奪われてしまう」っていう意見もあると思うんですが、僕は全くそうは思ってません。

作り手が主張できるのは

「私はこういう意図で作りました」

っていうところまでなんですよね。

その先の

「その意図なりなんなりについてあれこれ言う」

という自由が、それこそ無限の解釈や感想の自由が受け手には残されてるわけですから。

僕自身、何もないところから鑑賞して一から自分の感想を組み立てていくよりも、作り手が最初に提示した「これはこういう作品だよ」という主張をたたき台にして、

「だとするとこの部分はこういう意図かもしれない」

とか

「この作り手、口ではこう言ってるけど実際やってることはこういうことだろ」

みたいに、

作り手の主張が呼び水になって自分なりの価値観や感想が溢れてくることがあります。

その方が、より深くて遠くまで及ぶ、自分だけのパーソナルな感動になったりするんですよね。

自分の作るモノも、そういう楽しみ方を提供出来たら楽しくない?って思ってるんですよ。

ていうか僕自身はそういう風に楽しんでもらえたら確実に楽しいです。

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